15分文学@AKAI

今考えてることと、15分で書いた文章を時時載せてます、それからあとは心の声だだもれ日記

熊本から考える脳内モヤモヤ現象

こんにちは!アカイです。早速ですが、混乱しています。本当に。どうしたらいいのかモヤモヤしすぎて、なんだかまとまらない頭の整頓のために書きたいと思います今日は。

 

先月発生した熊本の地震。アカイの身近な友達もそこに住んでいたことがあったり、実家が全壊してしまったり、心がゆらぐようなことになっています。

 

被災している人々のことが気になる一方で、どれを信じたらいいのか分からないくらい情報が錯そうしていて、何が正解で何が不正解なのか、脳内がパニック。

 

連日ものすごい被害の様子がテレビで放映され、食料の不足やノロの蔓延、今すぐにでも物資を送ってほしいという情報の後に、今物資が送ってこられてもさばけないから待ってほしいという情報。

 

「待ちましょう」と

「今すぐ何かしましょう」の狭間で

どんどん更新されていく情報たち。

 

いったい全体なにがどーなっているんだよーーーー!!!!叫 

 

て感じ。

 

 

個人のTwitterやFace bookから発信されたもの、それをシェアして拡散するもの。

 

ITってすごい。すごいけど怖い。なにがどうなっているのか、何を信じていいのか、材料はたくさんくれるくせに、あとは自己判断でよろしくね(ハート)って感じで。

 

材料があまりにも多すぎて、人の足を止めさせているのもまた事実。

食料や生活必需品を送ろうという動きを、今はそれよりお金がいいらしいという情報が鈍らせ、今すぐ助けに行こうという動きを、逆に大手の支援先の交通手段を妨げるからやめた方がいいらしいという情報が足止めして。

 

結局どれだけの人が正しく動けたのかな?

 

恥ずかしい話、アカイは足がすくんでしまいました。

 

何かしたい!

でも何かしたい気持ちでガーっと動くことが、逆に迷惑をかけてしまうのでは?という気持ちに負けてしまった。

 

錯そうする情報の量に負けてしまった気がしているのだ。…めちゃくちゃ悔しい。

 

この事態に乗じて、儲かろうとたくらむ人が出てきていることも悔しいし、災害って本当に人間は無力だと感じて悔しい。

 

神様、いるかどうかわからないけれど、怒っているのか、それとも苦しいのか。

同時にエクアドルでも起きた地震。地球の反対側同士を揺さぶって、崩して、いったいどうしたんだろう。

 

分からなくて、悔しい。そしてきっと、熊本のみんなは、アカイの何倍も何倍も悔しくて、何倍も何倍も苦しいはず。

 

それに対して我たちは、何ができるのか・・・。

そうやってぐるぐる考える横で、

 

「いやいやあなた一人に何かできるなんて考え、そもそもエゴですやん。もう考えるのやめて、専門家にまかせておきなよ」

 

とささやいてくる、シラン・プーリ。

 

そしてまたどんどん更新されていく、どこまで事実でどこからウソか分からない情報。

 

それを見てまたぐるぐるさせられて悔しい。見なきゃいいとかそういうことじゃなくて。感じることをやめたら、終わりだと思うから、シラン・プーリに飲み込まれるのだけは避けたいよ。

 

そしてもうひとつ心が痛いのは、震災支援の関連情報たちに寄せられている批判的なコメントたち。

 

行動するということは、行動しないということの何倍もすごいと思うのです。

 

行動しなかった人が、行動した人に、「だからやめて置けばよかったじゃん」なんて、言っちゃいけないと思う。

 

心で思うのと、言葉に出したり文字にして世に出したりするのは、全然違う。よね。

 

なんてまだ色々ぐるぐるしているけど、今日は一歩目として熊本の友達に連絡をしてみようと思います。シラン・プーリなんかに負けない。でおきたい。以上!

新学期!学校へ行きたくないっていう子の気持ちを忘れない

はろー!アカイです!

今日からほどんどの小学校が新学期OR入学式を迎えているでしょう!

 

アカイが小学生だったのはもう15年以上前…。くう~あの新学期のはらはらドキドキした気持ちを思いだ……あれ?もうなんだか思いだせない!汗 

 

なんて、式服を着て通学していく子たちを見ながら思ったのです。

 

記憶を頑張って手繰り寄せていくと、新学期って、学校行事の中で一番ナーバスだったなー!!!!と、思い出した。

 

心の中は、?でいっぱい。

新しいクラス誰がいるかな?仲良しの子は一緒のクラスかな?先生誰だろう?

 

不安と期待は8:2くらい。完全に不安の方が強かったなあ…。

 

大人になっちゃうと、

 

「明日から新学期だねえ、○年生になるんだね。楽しみだねえ!」

 

って当たり前のように言ってしまうけど、子どものときのアカイは

 

「楽しみは楽しみだけど…心配の方が強いわ!分かってないいなあもう!ふんっ」

 

って思っていたような気がする。

 

だから、新学期の前日に、「明日いやだなあ…」とか、

新学期の朝、「学校行きたくない…」とか、言う子がいたら、

 

「何言っているの、早く行きなさい」

 

という前に、

 

「緊張するよね、わかるよ」

 

って、一言言える大人になろうと思うのです。

 

背中を押すのも大人の仕事だけど、分かるよって言ってあげるのも大人の仕事と思う。

大人って仕事多いなあ。でもしょうがいない、大人だから。

 

去年の夏休み明けだったかな、とっても素敵なTwitterが話題になっていたのだ。

確か、鎌倉かどこかの図書館のつぶやきだったと思うのだけれど。

 

「もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、図書館においで。漫画もあるよ、ずっといても誰も何も言わないよ」

 

みたいな内容だった。

これは、夏休みあけの子どもの自殺率が上がることをうけて、居場所に図書館もあるよっていうメッセージだったのだけど、とっても素敵だなあと思った。

 

学校って、とっても狭い。

小さい教室に大人数でぽんっと入れられて、いやな友達がいても、いやな先生がいても毎日顔を合わせる。

 

一度クラスが決まれば、一年間は環境を変えられないし、逃げようにも逃げられない。

 

みんながみんな、学校が楽しいわけではない。大人だって一緒だ。

 

職場の環境がつらかったら行きたくないし、憂鬱になるし、病気になってしまうこともある。

 

新しい職場に変わる時は、緊張するし不安もたくさんある。

大人も子どもも同じようなことで不安を感じるし、いやなものはいやだ。

 

ただ、大人は何度か回数を重ねた分少しだけ強くなっているから、

自分の力で緊張とや不安と戦える。

 

でも、子どもは

「わお!なんか緊張するし不安…もう行きたくありません。Give up涙」

となることもある。

 

そりゃあそうだ、経験値不足ですもの。

でも、大人になるとそのことを忘れてしまったりするよなーって思う。

 

小さかったとき、いやなことがあって、

 

「絶対こんなことする(こんなこと言う)大人にならない!」

 

って思ってても、実際に大人になったら忘れてしまって、

 

「あらやだ私今、あの時なりたくなかった大人になってる!?」

 

ってうぎゃー!となることってたぶんある。

だから、「あ、やばいやばい忘れてた!」と今日思ったのです。

 

不安と期待が8:2の新学期だったことを。「緊張するよね、分かるよ」って言って欲しかったことを。

 

少しでも多くの子が、早く慣れて、楽しくなるといいなあ。

だって、学校って割と楽しい。

 

先生たちって、めちゃくちゃ頑張っていつも楽しませようとしている。

毎日通う場所は、誰にとっても大切なところだから、少しでも気持ちがいい方がいいよなあ。

 

みんな生きていて、みんな心があるから、みんなつらくて、みんなうれしい。

 

うれしいことがたくさんありますように。ふんっ(気合い)。以上!

Where are you from?って聞かないで。

へいアカイです!

 

今日はこのあいだ見たTED Talkの話。

タラエさんという作家が話し手だったのですが。

 

今回彼女のトピックは、人はよく「どこの出身ですか?(where are you from?)」と聞くけれど、この質問って…。

 

というものでした。答えは、「Japan」「Australisa」「America」と、もちろんそれぞれ。

 

ですが、中には「私はアメリカで生まれたけれど1歳の時にカナダに引っ越して、10歳のときには日本に移って、その後フィジーに行って、今はドイツに住んで15年目になります。」なんていう人ももちろんいる。

 

こんな場合、「どこの出身ですか」という質問の答えはとても困る。

 

「生まれたのはアメリカだけどアメリカのことはほとんど覚えていないし、家族とは英語で話すけど日本語もドイツ語も話せて、どちらかというとドイツ語を話してる方が私はリラックスできるから、ドイツ出身。」

 

なんて答えても、

 

「え、でもドイツは住んでいるのが長いだけ?ですよね」なんて言われたら、、、

 

それもそうだ。そうしたら、じゃあ私はいったいどこの出身なのだろう。となる。

 

タラエさんも、今までたくさんの国に住んでいたことがあり、

 

Where are you from?」と聞かれたら、戸惑うと話していた。

 

そうでなくて

 

「あなたのローカル(地域)はどこですか?」

 

と聞いて欲しいな、と。

 

住んでいる国、環境やその場所の文化は、人が大人になるときに多大な影響を与える。

 

自分自身が、あの地域からは多大なる影響を受けている!と思う地域があれば、自分の根っこはその場所にあると思う。

 

イコール、「私のローカルは○○です」って、言う方が、しっくりくる、と。

 

確かに!!!!!

 

 

言っていることすごく分かる。

 

 

そもそも、どうして人はこの質問をするのかな。

 

  1. 相手との共通点を見つけるため。
  2. 相手のことをもっとよく知ろうとするため。
  3. なんとなく形式的に。

 

 

ううーーーん。①と②はまだ理由としてはグッドな気がするけど、なんか③が多いような気もする。

 

何か話さなきゃ…で、なんとなく「えっと、どこの出身なんですか?」みたいに。

 

この質問って、そんな風にさらっと聞くと、色んなものを知る機会を逃しやすい、もったいない質問なんだろうなあ。

そもそも、この質問の意味を人はあまり深く考えていないんだろうけど。もちろん自分も含めて。

 

 

アカイは日本生まれ、日本育ち。多少海外にはいたけど1年程度。今回このタラエさんのような意見はカケラも持ってなかった。

 

周りのみんなのほとんどが、アジアにルーツを持った人たち(もちろん主には日本人)だし、どこの出身?と聞かれても大概は県単位の話。

 

でも、今回思ったのです。日本でだって、新しく知り合った人と会話していて、「出身はどこですか?」という話になれば、同じように戸惑う人がいるだろなって。

 

 

「(うーん生まれたのは北海道だけどすぐその後家族の仕事の都合で全国点々としていたからなあ…今は千葉のはしの方に住んでも10年近くだから、気持ち的には千葉出身なんだけど…千葉っていってもまあ活動範囲はほぼ東京だから、)東京です!」

 

って言う人もいるかもしれない(千葉ごめんなさい)。

 

または、熊本で生まれて小学校までは沖縄にいて、そのあとずっと大阪にいる人がいるとして。

 

その人としては、友達も沖縄の人が多くて、文化も風習も言葉遣いも沖縄式の方がしっくりくるけど

 

「沖縄出身です」

 

といえば、「え、それって出身っていわないのでは?」と言われるとして。

 

 

じゃあ、出身ってなんやねーん!出身聞くなよー!

 

って思うと思うのです、そしてそれって悲しいよなあと思う。

 

ももし、「私のローカルは沖縄にあります」という答えができるなら、「なるほどなあ」とみんな思うと思うのだ。

 

 

小さいことではあると思うのです。

質問なんて、どうやって聞いてもいいじゃん!と思えばそこまでなんだけど。

 

でも、そんな小さいことにでも興味もって変えていけば、もっと面白い大きなことが知れるかもしれないから、やっぱり小さいこともアンテナ貼っていきたいなと。そんなことを思ったのでした。

 

世界って広いなあ。てか、日本って小さい。もっと外みて、色んなものに対して、これって何かな?あれって何かなあ?てやっていかないといけな。

 

TED Talk最高。

 

www.youtube.com

アメリカ版ドラえもんに異議がありすぎる件

Hey!アカイです、こんばんは。

2年ほど前にアメリカ版が制作されて話題になっていた、日本国民きっと誰もが一度は目にしたことがあるであろうアニメ、「ドラえもん。」

 

先日このアメリカ版がテレビで取り上げられていたのをたまたま目にして思ったこと。

 

「え、もうこれってドラえもんって呼べるのかどうか謎。。。」

 

というのが今夜のテーマです。

 

というのも。最初から英語版として制作されたのは、今回が初めてらしいのです。

(ということは、今まで通常の日本語版を英訳して上映していたことはあったということなのかな)

 

その制作にあたって、アメリカの子供たちに受け入れやすい/理解しやすいように、いくつか原作の内容を変更してあるとのこと。

 

どのへんが変わっているかというと。。

 

まず、名前が変わってる!すげー変わってる。

 

 

ノビ太→Noby(ノビー)

ジャイアン→Big G(ビックジー)

ジャイ子→Little G(リトルジー)など。

 

いやいやいやいやいやいやいやいや。

 

 

逆を考えてみよう。

アメリカ版で制作されたアニメが、主人公の名前変えて日本にやってくる?

 

こないでしょ!それだけじゃない。

 

ごはんを食べるシーンでは、

カツ丼食べているのにお箸ではなくてフォークになっているし、

オムライスを作っているシーンでは、パンケーキに変更になっているらしい!

(オムライスとは日本発祥の食べ物なのです)

 

え、いいじゃん、オムライスのままで!

 

オムライスを見た子たちが、

 

「Woooow! what’s this? Looks yummy! (ええ、何この食べ物!おいしそう!)」

 

とか思って、なんだろう…というハテナを解消すべく、

 

自分で調べたりMomに聞いたり、そうやって日本を知っていくことって、大事なんじゃないの?!

 

と、激しく思うのです。

 

だって、この状況を逆に当てはめると、

 

トイストーリーのウッディだって、木太郎くんとかに名前変わっちゃうし、

 

お弁当の中身だってジャムサンドがおにぎりに変わっちゃうということ。

 

そんなの悲しい!せっかく他の国のことを知るチャンスのうちの一つなのに。

 

日本は島国だから、ただでさえ他の国と交流する機会は少ない。

 

自分と自分の両親は同じような見た目をして生まれてくるのが当たり前だし、だからこそ他者とか他国との違いを感じることってほとんどない。

 

アニメって、こんな環境の中でもそういったことを感じ取ることができるいい機会だと思うんだけどな。

 

トムとジェリーが、太郎と花子ってタイトルだったら魅力が半減すると思うし、

 

「お弁当が…ピーナッツバタージャムサンド??え、どういうこと?おやつ?」

 

って疑問思うからこそ、自分で知ろうと調べた結果、文化の勉強になると思うのだ。

 

あ、なるほどね。お昼ご飯としても、ありなのか。みたいな。

 

もっと知りたい、なんだろうこれ?って思うことって、子どもにとってもそうだけど大人にとっても大切。

 

なんでこんな大切なチャンスをとっちゃったんだろう。

 

アカイが初めてオーストラリアに行ったとき、子供たちはみんな自分のお弁当は自分で作っていて、その中身はたいていジャムサンドイッチかピーナッツバターサンドイッチって聞いて、ものすごい衝撃だったのは覚えている。

 

文化の違いって、自分の中に全くないアイディアだったりするから、とっても面白い。のに。

 

ということで、改めてみたアメリカ版ドラえもんに異議がありすぎた件。

 

つばが飛ぶかなって思うくらいの勢いで文字を打ちました。

 

よかった、パソコンごしで。

もちろんだけど今回はアカイ目線でしか書いていません、ブログなので。

 

でもこれを制作した人はきっとその人たちなりの意図があるからこうなっているはず。

なので、もしチャンスがあったらなぜこういう風な変更することなったのか、聞いてみたいなあ。

 

インターネットの軌跡が起きて、製作者側からのコメントが来ますように。誤解がないように付け加えると、ドラえもん大好きです。

 

だからこそ熱くなりました。それでは、Have a good night.

 

3月4日追記

ちょっと調べたら、あのポケットモンスターのアメリカ版もバリッバリに名前変わってたよ!こんな感じ。

主人公サトシ→Ash Ketchum(アッシュ・ケッチャム)

オーキド博士→Professor Oak(プロフェッサーオーク)
ライバルのシゲル→Gary Oak(ゲイリー・オーク)

 

だれ!!!!!!アッシュ!?まだノビーの方がもとに近かったパターン…。

そしてポケモンたちの名前も、各言語に直されるときに、変わっていたみたい。

ポケモンの外国語名一覧 - ポケモンWiki よかったら見てみてください。

いやー、ドラえもんであんなにうはーーーー!?ってなったのに、けっこう当たり前のように直されてリリースされているんだなあ…。勉強になりました。これ日本だけかなー?他の国発信の映画やアニメや漫画が日本に入ってくるとき、こんな風にバンバン直しているところってあるのか…はたまたそれを直すのと直さないのでは、どのくらい普及率や人気の出具合が変わるのか…これは誰にきいたらいいんだ。。悩

若干もやもやしたままですが、以上追記でした。

 

マツコさんの「お風呂でオシッコ」の話題から思ったこと

こんにちは!沖縄もやっと寒くなってきて冬っぽい。アカイです。

 

さて今日はこの間の「マツコと&有吉の怒り新党」で放送されて反響を呼んでいる(らしい。すいませんアカイはテレビほぼ見ないけれど)この件。

 

 

「お風呂でオシッコする」ということ。

 

 

番組では、彼氏がお風呂でオシッコするのが許せないという彼女からの投稿。

 

マツコさんはこれに断固反対「するでしょう!てかしていいよ!」的なポジション。

 

アカイの意見は、マツコさんにちょう賛成!オシッコするよ!!!!!笑

 

 

というか、お風呂入っているときって、オシッコしたくなる!よね?

 

海で泳いでいるときだってプール入っているときだって、水の中にいるとなんだか尿意って生まれる気がする。

 

もちろん公共の場ではこらえるけれど、お風呂って言われたら別。

 

お風呂中にオシッコはしちゃうよ!!!!

 

そして番組内では18歳以上の男女500人にアンケートをとっていた。

 

その中で、男性は41%、女性は35%が「お風呂でオシッコをする」と回答。

 

ううーん・・・少なくない?!

 

特に女性。絶対に嘘ついてる人がいる気がする!

 

おもしろい。

 

 

ええと、今回何を考えたかと言うと。

 

このアンケートが紙で行われたのかネットでなのか対面で行われたのかは不明なのだけれど。

 

自分が不特定多数になれないような対面のアンケートで「お風呂でオシッコする?」と聞かれたときは、おそらくほとんどの女性が解答をNOにすると思うのだ。

 

でも、「私はお風呂でオシッコするんだけど、あなたはする?」って聞かれたら、どうなる?

 

たぶん答えがイエスになる確率はぐんと上がると思うのだ。

 

「私はしていますけれど」前提のアンケート効果。

 

特にオシッコとかマスターベーションとかセックスとか下のことに対することになると、なんだか日本ってそういう風潮がある気がする。

 

「あなたはマスターベーションをしていますか?」という質問と、

 

「私マスターベーションするの好きなんだけど、あなたもしてる?」って聞かれるのでは、解答が全然変わってくるイメージ。

 

なんだか、いけないことをしているような感覚。

 

 

そんなんどっかいけーーーーー!

 

 

 

と、アカイは心から思うのだ。

 

そうやって色んなことをオープンに話せないような環境を作っていることがよくないと思う。

 

マスターベーションだってセックスだって避妊だってオーガズムだって、なんでも知っていることにこしたことはないのに。

 

マスターベーションするよ」とか、「セックスするの好きだよ」とか言うものならば、「あいつはヤリマンだ」と噂され。

 

10代後半でエッチな本とかビデオを見ようものなら「そんなもの見るのはやめなさい」と怒られるのに、

 

20代の前半には「早く結婚して孫を見せて」と言われる。

 

どうなってるんだよーーほんとに。矛盾ばっかり。

 

性については日本ではちゃんと密に教えてくれる人はとっても少ない。

 

親がやるべきだとか、学校がやるべきだとか、みんなどこかに押し付けあって。そんな暇あるならあなたが教えてあげて。

 

 

てかそもそも、教えることを避けたがる=なんだかタブーなものだと大人ですら思っている証拠です!!!

 

なんで?いいじゃん。セックス。いいじゃん、マスターベーション

 

コンドームの付け方も、つける大切さも、同性も異性も好きな人は好きでいいんだってことも、どれも素敵なことなのになんでタブー視される?

 

自分の子どもが10代後半で子どもができたと言ってきたら、「早すぎる!」と怒る前に、

 

自分はちゃんと子どもに色々性のお話をしてきたのかどうか、ちゃんと振り返ってから怒ってよ?と思う。

 

 

あーーーもったいない本当に。わしゃわしゃわしゃ。

 

オープンに話す環境がないっていうのは=一人で悩むことが多いってことだと思うのです。

 

何の経験もまだないとき、相談する相手がいなくて結果ビデオや雑誌からの情報収集のみになり、よけいに不安になったり、大げさな意見を普通のものだと思ったり。

 

そういうの多い!もっとオープンに友達同士とかで話すのが普通な環境になれーーーーと思う。

 

そうしたら、もっと下の世界が楽しめるはず。

セックスは誰にとっても、楽しめるものであっていいはずなのに。

 

まあ元に戻ると、35%のイエスと答えてくれた女性!

 

ありがとう!アカイも賛成です。

 

そうやって色んなことを進んでオープンにしていけたらいいな。

 

っていう、半ば無理やりなまとめで今日はおわり。

夫婦別姓の最高裁判決で考えたこと

こんばんは!アカイです。

 

はーーーーーーーーー。今夜はかなりホットな(アカイ的にですけど)

話題、最近判決があった夫婦別性に関するwhat I feelです。

 

そもそも日本ではあまり裁判って身近なものではないなと思うのです。

 

アカイだって、中学2年のときに学校でインターンシップがあって、

 

そのときは「え、裁判官って何が正しいか決める人?ちょーかっこいい!」と思って

 

弁護士事務所にインターンに行き、そこの体験のひとつとして裁判所の傍聴に連れて行ってもらっていなかったら、

 

もっと自分に遠い話だと今でも思っていたと思う。

 

 

日本だと、裁判する=ものすごい大事。というイメージが強いと思うのです。

 

でも国が変わってアメリカとかになると、もっとバンバン裁判してる感じ。

 

なんかあると、じゃあ法廷で会いましょう!的な。まあそれは置いておいて。。

 

 

今の日本では、結婚したら夫婦はどちらかの性に統一しなくてはいけません。

 

男性の方の性にするか、女性側の方にするかは自分たちで決められるけれど、とりあえず同じ性にしなくちゃいけない。

 

今回のこの裁判は、

 

「必ず同じ性にしなくちゃだめ?それ憲法に違反してない?性はかならずしも同じじゃなくてもいいよって認めて!」

 

というものでした。

 

性をどっちのものにするか選べるとはいっても、90%が夫側のものに変える、というのがなんとなーくあたりまえになっている今。

 

旦那さんの名字に代わることに喜びを覚える女性もいる一方で、

 

バリバリのキャリアウーマンで仕事のときに名前変わると色々めんどくさいから変えたくないなあと思う女性がいるのも事実。

 

法の下に人はみんな平等といわれているけのに、結婚することでどちらかは自分の性を失わなければいけない。

 

それは果たして本当にオッケーなのか。

 

裁判官のトップ中のトップである15人の最高裁判官たちが、どんな風に結論を出すのか気になっていました。

 

そして結論からいうと、夫婦別姓は認められませんでした。

 

やはり結婚するのだったら、どちらか一方の性を選んで、二人とも同じ性を名乗るべきと、そういう結論になりました。

 

残念。

めっちゃ残念。

 

 

判決の理由としてはざっくりいうと、夫婦は同じ性をなのることによって、家族や親族間のつながりと感じる、深めることができるから。などなど。

 

うーーーーん。本当にそうなのかな。

 

性が同じでなくても家族は家族だし、性だけがすべてじゃないと思うのだけれど。

 

最高裁判官15人の中にも、この判決に反対している人たちがいました。

 

岡部さんをはじめとする、女性の裁判官3人もそうでした。

 

岡部さんは、

 

「性によって家族のつながりを感じることがある、というのが疑問。女性も社会に進出している今、性が変わることで生じる不利益のために、婚姻という選択をとらない人々もいるのに、これをよしとしていいのか」と。

 

ほーーーーう、確かに。

 

まあ、なんというか、結婚しても職場では元の性のまま使っている、いわゆる通称の性の人は全然めずらしくない。

 

でも、通称はあくまでも通称であって、正式な書類や手続きでは使えない。

 

アカイは自分の名字が使えなくなったら、とっても悲しいなあと思う。

 

なんだか、自分の一部がどこかにいっちゃったような気がして。

 

もちろん感じ方はひとそれぞれだけれど。

 

今回の裁判の判決は、夫婦別姓を認めないのは違憲ではないとしつつも、これからは時代に合わせて、国会などでもっと考え行くべし、ともしているみたい。

 

そうだねえ、そうしよう。

 

自分たちのことなんだから、自分たちでももっと考えないとなあ。

 

個人的な意見としては、性が同じだろうか違うだろうか好きな人はもちろん好き。

 

性が同じになることによって、嬉しいと感じる人もいるだろうけど、アカイ個人としては自分の性は好きだからできればそのままずっと名乗っていたい。

 

だから、「そのままでもいいよ」と言われる方がうれしい。

 

なんでもかんでも自由をくれということがいいことだとは思わないけど、名前って生きているなかで一番使う言葉だと思うから、それは自分で選べたらいいなと思う。

 

 

そしてちょっと別件も。

 

最高裁判官って、一度なれば辞めさせられることってほとんどない。

 

でも、ある物事に対して正しいか間違っているかどうか判断するポジションにいる、日本で一番上のポジションにいる人たちだ。

 

彼らが間違うと、日本が間違う可能性だってある。

 

でも、彼らだって間違えることはある。

 

人間だから。

 

 

だから国民には、彼らがもしだめなやつだと思ったら罷免するチャンスがある。

 

衆議院選挙のときだ。

 

衆議院選挙のときは同時に、最高裁判官の国民審査がある。

この時に、やめて欲しいなと思う裁判官の名前の上には、×を書くことができる。

 

 

たぶん普通だと「えーそんなこと言われても。。。ていうかこれなに?なんでもいいや」

 

みたいな気持ちで、よくわからないままに投票用紙を提出しちゃったりする。

 

でも、普段の凡例から意識して裁判官たちの意見を聞いていると、こんなとき迷わない。

 

アカイでいうと、今回岡部裁判官の意見はなるほどなあいいこと言うなあと思った。

 

無関心ほどよくないものはないと思うのだ。

 

消費税があがって、8%になって、

 

ニトリで1万円の毛布買ったときに「10800円です」って言われて初めて、

 

「え、税金高くなったなあ!」と思っても、もう遅いのだ。

 

 

そうなる前の段階で、

 

「消費税上げようとしている党には投票しないでおこう」とか、

 

「小学生までは医療費無料にしてくれるって?じゃあこの党に入れよう!」

 

みたいに、普段からなんとなくでもいいから、興味を持っていかなきゃ。

 

自分たちの暮らす国のことなのに、「よくわからないから選挙いかない」とか、一番やっちゃいけないことだと思う。

 

そんなの全然かっこよくないし、むしろ恥ずかしい。

 

「自分が選挙いったところで何も変わらないじゃん」という人たちの気持ちもわかる。

 

 

でも、全然説得力ない。投票率がこんなに低いんじゃあね。

そういうことは全員選挙行ってから、言おうさ。

 

 

とりあえず。

 

今回の最高裁の判決の上では、夫婦別姓はまだ認められていません。

 

でも、きっとたくさんの人がこのことを考える機会にはなった、はず。

 

そう思いたいなあ。もっとアンテナはって生きよう。そんなことを思う月曜の夜でした。

 

 

 

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2017.10.16追記

また衆議院の選挙がきます。今回も、国民投票があります。

 

機会ってやっぱりどんな時でも大切だとおもうから、

 

少しでも関心のある分野だけでもいいから調べてから選挙にいこうって思って、

 

パソコンの前に座って早くも2時間。

 

手間も時間もかかるし、めんどくさいって言い切ることもできるけど、

 

これをやらなくなったら本当に国について考えることなんてなる気がする。

 

だからやってるフリでも、考えているフリでもいいから、

 

それくらいのフリはできるくらいは知っておきたいっておもう。

 

 

少しでも投票率が上がりますように

学校と子供と親と教師と

へい!アカイです。先日、某ファーストフード店でのヒトコマ。お隣はどうやらママ会らしい。かなり盛り上がっていたから、色々聞こえた。

 

 

「この間宿題をやってこないからっていって、担任の先生から電話があったのよ。もう1週間以上もやってこないからって。普通それくらいで電話してくる?」

 

「ああ、うちも時々あるよ。忘れ物がかなり多いので、一緒に確認してあげてくださいって。確認って言われてもねえ。」

 

「私たち小さいとき、親に電話ってされた?私たちが覚えていないだけ?」

 

「いやー、そんなよっぽどのことでもない限り、電話なんてされなかったと思うよ」

 

「学校内で解決できることは、解決してほしいねえ。忘れ物とか、宿題くらいで電話って、なんだかねえ」

 

「ほんとねえ。」

 

こんな感じ。もっと色々言っていたけれど。これを聞いて、なんだかアカイはとても悲しくなった。

 

このお母さんたちは、学校で毎日自分の子供たちと先生の間でどんなことが起きていて、どんな会話があるか、どれくらい知っているのだろう。

 

忘れ物があったら参加できない授業があったり、他の子供にも迷惑をかけることがあることを、ちゃんと知っているのかな。

宿題をしてこないことで、他の子に比べて学ぶ機会を逃してしまっていることを、ちゃんと分かっているのかな。

 

学校内で解決できるようにあれこれやってもどうにもならないから、もしくは本人のそんな状況をきちんとお母さんたちにも知って欲しくて、先生たちが電話してきているのだと考えないのかな。

 

学校って、今はとても世間から叩かれやすいイメージ。

 

どこかで不祥事があれば、「ほらこれだから教師は」と言われ、

 

何か事件があれば「学校は今まで何をしていたのか」と言われる。

 

一理あるかもしれないけど、きっとそれがすべてじゃないと思う。

 

人間は、何かあったときに責める対象があれば、責めてしまうのだと思う。

 

責める対象があるのは楽だし、何のせいにもできないことはつらい。

 

でも実際に叩かれるように、現場の学校の先生たちが、楽をしているのかというと、絶対にそうじゃないと思う。

 

学校現場は毎日戦いの連続。

 

次から次へと起きる小さな事件に心と体を割いて対応して、「学力向上」の四字熟語と文字通りと戦いながら子どもの話も聞いて、

 

一人一人の変化には敏感に反応できるようにしつつ、行事の準備をしながら自分の研究の準備もして、民間と同じように人事評価もあって、

 

国が方針を変えたら現場にどどっとしわ寄せがきて、そうやって毎日ギリギリだけど先生という仕事が好きだから、何とかやっている。

 

そういう先生がたくさんいると思う。

 

そしてそういう先生ほど、親とも連携をとろうとするのだと思う。

 

時代が変われば環境が変わるから、環境が変われば子どもも変わる。

 

どうか自分のころの時代と比較せずに、今の状況を見てほしいなと思う。

 

 

学校を特別に見てほしいとかそういうことでは全くなくて、ただ、子供を見るという職業だから、親とも連携することが必要な場面が多々あると思う。

 

そして、その目的は、子供が良い方向に進んでほしい、それだけだと思う。

 

だから連絡も来るし、だから連携も必要。

 

なのでどうか、世間のお母さんお父さんたち、先生たちと一緒になって、子供を育てていくという目的を達成するために、色々協力しあえればなと思う。

 

どっちの仕事だとか押し付けあわず、親も教師も尊敬しあって、連携をとっていければな。と、思った。

 

でもそれって、どんなところでも一緒だと思うのだ。

 

衝突しているところほど、自分のことだけを第一に考えていることは多い。

 

どんなことでも、自分がいたら相手がいる。

 

どっちのことも考えていければ、大人の世界でも子供の世界でも、きっとうまくいく。

そんなことを思ったのでした。おわり